創世記2:8-9
(主なる神がエデンの東側に庭を植えた)
『主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 』 (創世記2:8-9)
神は地の土から人を造り、彼の鼻に命を吹き込み、人にした。この人はアダムであり、神の国で罪を犯した霊は土に入った生き物です。ですから、神の国で罪を犯した霊たちはアダムに従い、世界で生まれた生き物に入り、人間になります。神の国で罪を犯した霊が土に入ると、霊は死んで魂になります。霊が閉じ込められているので、神との関係は壊れています。それで聖書は、「霊は死んだ」と述べています。神は生き残るために死んだ霊を祝福します。それがエデンの園です。神はアダムをエデンの園に連れて来て、命の木の実を食べさせ、霊は生き残った。神はエデンの園を通して神の国で何が起こったかを説明し、善悪を知る木の実を食べないように私たちに告げています。『 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 』 これは、アダムがこの世で生まれ、神がアダムをエデンの園に導いたことを意味します。 2:15『主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
』 つまり、人間はエデンの園では生まれません。神が最初からエデンの園で人々を造られなかったのは、彼らがもともと神の国にいて、なぜあなたがこの世界に住んでいたのかを考えていたからです。
『主なる神はエデンの東側に庭を植えました』東方(ヘブライ語:ケデム)は「東」と「初期」を意味します。ヨシュア記15:5では『東の境は塩の海であって、ヨルダンの川口に達する。北の方の境は、ヨルダンの川口の、入海から起り、
』 ヨシュア18:20、裁判官6:33、王1人4:30で言及されている東は東を指します。
ちなみに詩篇55:10では『彼らは昼も夜も町の城壁の上を歩きめぐり、町のうちには害悪と悩みとがあります。』. さらに、詩篇68:33、詩篇78:2、および箴言8:22-23では、ヘブライ語の「ケデム」とともに「一次、古代」という言葉が使用されています。 『主なる神はエデンの東に庭を植えた』では、東は「初等」と解釈されるべきである。それは創造の物語を伝えるからです。
『エデン』は神の国を象徴しています。エデンガーデンは、エデンとガーデンを組み合わせた言葉です。庭は地球のことを伝えるためのものです。つまり、聖書は地の働きを通して神の国の働きを伝えようとしています。『 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 』 神は初めに天地を創造され、天地は神の国と物質界を意味します。最初の物質的な世界は水の塊でした。水塊の真ん中に窓(空)があり、窓の上下で水が分かれていました。動物、植物、そして人間を含むすべてが広大な水の下で作られています。窓の下の水(濁った水)の土をろ過して陸と呼び、その海を海と呼びます。それで、人と動物は土から造られました。ですから、善悪を知る木も窓の下の水でできていると言えます。
窓の上の水と窓の下の水はもともと一つでした。広大な地下の水には天の生命はなく、物質的な生命しかありません。神は共有し続けます。初めに、神は天と地を創造されました。言い換えれば、彼は神の国から物質的な世界を共有しました。彼は光を創造し、光と闇を共有しました。光は命であり、闇は死です。空の上の水は生命であり、空の下の水は生命がありません。窓の下の水が暗く、神様からの光がないので神様はいないと言われています。
『また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 』 生命の木がエデンの園の真ん中にあることがわかります。そして、善悪を知る木があります。生命の木は窓の上の水を象徴し、善悪の知識の木は窓の下の水を象徴しています。エデンの園は神の国を象徴していますが、この国を代表しています。つまり、命の木の実は神の言葉であり、善悪を知る木の実は「自分の義」に陥って神のようになったサタンの心を表しています。しかし、地上のエデンの園はどちらも神の言葉ですが、命の木はキリストでの生活を意味し、善悪の知識の木の実は私たちに罪を悟らせる律法を意味します。
つまり、命の木は霊を救う木であり、善悪を知る木は霊が死んでいることを示しています。旧約時代には、キリスト(命の木)は律法(善悪の知識の木)に隠されていました。しかし、新約聖書では、命の木が庭で明かされたので、律法上明かされました。イブが善悪を知る木の実を食べるのは、彼女が神のようになりたいからです。神のようになりたいという願望は、イスラエルの民が律法を守ることによって神の義を守ることができると思ったのと同じです。これが「自己義」です。
生命の木であるイエス・キリストが現れたら、善悪を知る木の実を食べてはなりません。あなたは命の木の実だけを食べなければなりません。命の木とはイエス・キリストに入るという意味です。言い換えれば、あなたはキリストと共に葬られるでしょう。しかし、命の木を食べて、律法を象徴する善悪を知っている木の実を食べると言うと、エデンの園から追放されます。教会は法律に従わないと言っていますが、それはそれがどれだけ合法であるかを考え、それを守ることを通してのみです。
「空の下の水によって作成されたすべてのもの」には、神なしで神のようになりたいというすべての属性が含まれています。聖書は地の働きについて語っていますが、神が言われていることを正確に理解するには、それは天の働きとして解釈されなければなりません。神は御ことばの中に神の国の働きを隠しておられました。それは隠されたものを通して実現することです。それは窓の下の水を通して窓の上の水を実現することです。アダムは来る人のイメージです。イエス・キリストが来る人です。アダムは窓の下の水を象徴しています。イエス・キリストは窓の上の水を象徴しています。それで、キリストはアダムに隠されました。しかし、キリストはエデンの園の真ん中に来て立ちました。アダムでは地球の生命を手に入れましたが、キリストでは天の生命を手に入れました。
イブが善悪の知識の木の実を食べたということは、神の国では霊が神のない神のようであり、サタンの妄想に従ったことを意味します。アダムが木の実を食べて食べたのは、イブから与えられた善と悪を知り、キリストが彼らに罪の体を与えたからです。神の国から世に送り出された霊たちのためです。したがって、アダムは来たる兆候です。キリストは霊を救う体を与えられました。最初のアダムは肉の体を与えましたが、最後のアダムは精神の体を与えました。体を脱いで霊の体を身に着けた人だけが救われる。これはローマ人への手紙6:4が言うことです。『すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 』
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